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平成最後の歴史探訪~ベルリンの壁~

東西冷戦の象徴

第二次世界大戦末期、ドイツはソ連軍に侵略され敗戦。無条件降伏文書に署名し終結した。首都ベルリンは東側をソ連(東ドイツ)が、西側を米・英・仏(西ドイツ)が支配する分割統治となった。しかし、東ドイツから西ドイツへの脱出者が絶えなかったために作られたのが「ベルリンの壁」。1961年のことだった。

ベルリンの壁崩壊までのシナリオ

・社会主義国家の東ドイツ国民は息苦しい生活を送っていた

・同じ社会主義国である東ヨーロッパ以外の国へは旅行できない

・東ドイツから西ドイツへの脱出者が相次ぐ

・東ドイツの支配党である社会主義統一党は「東ドイツ国民は誰でも自由に国境を通って出国可能」と発表

・しかし実際は警察に申請し出国ビザの発行手続きが必要だったが、党の担当者は記者の質問に対して「個人旅行も国外移住もいますぐ即刻だ」と言い間違う。

・西ベルリンがこのニュースを午後8時に速報で伝える。

・東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到。

・何も知らされていない警備兵は通行を拒否。

・「出国の自由化」を叫びながら集まる大勢の東ベルリン市民に圧倒され午後11時に検問所を開放。西ベルリンになだれ込む。

・ベルリンの壁に大勢がよじ登りハンマーで壁を叩き壊す。テレビなどでおなじみのシーンとなった。

ベルリンの壁 跡地

言い間違いによる壁の崩壊

冷戦の象徴であり、ドイツ分断の象徴でもあった歴史遺産「ベルリンの壁」は、あっさりと崩壊してしまった。「国外旅行の自由化」という党の一方針を、担当者が言い間違えたことによって。

壁崩壊後は、連日約2000人もの東ドイツ国民が西へとなだれ込み、東ドイツは国家として存続する体力を失う。1990年(平成2年)10月3日に東ドイツ議会は西と統一することを決めた。東ドイツという社会主義国が消滅した瞬間だった。

旧東ドイツホーネッカー書記長&旧ソ連ブレジネフ書記長

アーティスティックな壁

崩壊から30年、現在のベルリンの壁は一部が残されていて、アーティストたちによる絵が描かれている。

ポテトチップスのパッケージから連想されたとはいえ、随分とかけ離れた歴史探訪となった。

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